真言宗泉涌寺派 弘法寺 in 高知県四万十町
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大震災から学ぶ入我我入感
ジョイセフの救援活動
彼はCMディレクター
作家 藤本義一氏にインタビュー
大震災から学ぶ入我我入感
六大新報 平成8年1月1日 新春増大特集号掲載
平成七年は大震災で幕を開けた。私の自坊は西宮市に位置し、ちょうど被災地の真中にあり今までに体験したことのない激しさに見舞われた。 あの大震災から一年という歳月が経とうとしている。
淡路島北部を震源に発生した阪神淡路大震災は神戸、西宮、芦屋、宝塚各市や淡路島を 中心に六千四百人を越す人々の尊い生命を奪い、負傷者三万五千人以上、全半壊十六万棟という戦後最悪の大惨事となってしまった。
親戚を失い、友人を亡くし、心に受けたショックはかなりものがあった。しかし、震災当初より全国の青年教師の仲間をはじめ、 たくさんの教師の皆さんにボランティア活動等を通してお世話になり、勇気づけていただいた。 改めて全国の仲間に誌面をお借りしてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
震災当初、想像をはるかに越える惨状に自分自身どのような行動をとればいいのかわからなかった。 わずかに四十秒の出来事で、普通であった生活が一変してパニック状態になった。誰もが想像していないことが実際に起こり、 自分自身がその場に立たされた時、人間はどうしようもない恐怖で「自分」というものを失ってしまうものである。
誰が死んでもおかしくなかった。生きるか死ぬかはその人の持っている「運」だけであろうと 断言してしまえばお叱りを受けるかもしれない。しかし、体験したものの実感としてはそうとしか考えられない。
午前五時四十六分。あの時間が幸いしたともいえるであろう。 仮に午前六時を過ぎて地震が発生しておればどうなっていただろうか…被害は数百倍にも達していたであろう。想像しただけでもゾッとする。 震災直後、生きている自分に気付いたとき、おそらく助かった人全員が、生きている喜び、 生かされている喜びに感謝して心の底から手を合わせたことであろう。しかし、一年近く経った今、 生きているだけで十分ですと思っている人は誰一人としていないであろう。誰しもが現実に生きていかなければならないのである。
震災後、全国から青年教師をはじめとするたくさんの仲間がボランティア活動を通して現地に来ていただいた。 その姿を見て、本当に頭の下がる思いがした。本当にありがたかった。私の自坊は山手にあり、岩盤上に建っていたためか、 町の寺院に比べると被害もましな方であった。また、全真言宗青年連盟の事務局員でもあり、 幸いにも家族の理解、協力もありボランティア活動宗青年連盟の事務局員でもあり、 幸いにも家族の理解、協力もありボランティア活動のお手伝いに参加することができた。
毎日のように被災地で行われる炊き出し、斎場における無料読経所など、それぞれの仕事を奉仕の精神で、 真心を込めて行動していただき、被災者はどれほど勇気付けられたことであろうか。
ボランティア活動に参加していたある日の出来事である。その日はちょうど全真言宗青年連盟理事長、 森英真師も参加されていて、話をする機会を得た。
森師の話の中に、
「真言宗の修法の中に入我我入観がある。入我我入観とは仏と行者が一体となる観想だけど、 仏と一体になることばかりを考えていてはダメなんだ。実際に我々が生きている世界で、 衆生と入我我入しないと意味がないと思う。それをどのようにして実践できるかということが、 その行者の価値につながると思うんだ。今回の震災で、活動に参加している人は、そういった意味でいい勉強になると思うよ。」
という内容であった。
この言葉にはいささかショックを受けた。少なくとも今まで私は、 自分の心の中にある「仏心」を修法の中で見出すことばかりを考えて修法を続けていた。 仏さまと自分が融合することばかりを考えていた。ただ一心に真言を唱えて入我我入すれば仏さまの功徳を頂き、 パワーが得られるとばかり思っていた。
しかし、本来の修法の目的はそのような段階にはとどまらず、もっと深いものであることに気が付いた。 即ち、修法によって養われた「仏心」を、いかに一般社会で実践するかということである。 経典の中に説かれていることを現世で実践しなければ何のための修法なのか…
かつてお大師さまが密教を恵果和尚より授かり日本に帰られ高尾山寺を中心にその教えを広めようとされていた。 同じく最澄さまも天台宗の確立に必死であった。その時の「理趣釈経」にまつわる事件は有名な話である。 密教の正統を継承して、その密教によって他の一切の教義を包摂しようという立場のお大師さまと、 天台法華一乗の中に密教を取り入れよとした最澄さまの立場の違いがあった。 最澄さまは自分が唐で学んできた自分の密教が十分なものではないことをお大師さまとの交流を重ねるごとに、 その感を深めていかれたのであろう。自分からすすんで阿闍梨灌頂を伝授していただくように申し出たが、 なお三年の実修が必要ということで許可されなかった。続いて弟子の泰範を自分の代わりにお大師さまのもとにとどまらせ、 密教を学ばせることにして、比叡山に一端帰られる。後に「理趣釈経」の借用を願うが、 お大師さまはきっぱりとお断りなさったということである。
「性霊集補闕抄」巻十に収める「叡山の澄法師の理趣釈経を求むるに答する書」の中に 「もしまことに凡にして求めば、仏教に随うべし。もし仏教に随はば、必ず三昧耶を慎むべし。 三昧耶を越えれば伝者も受者も倶に益なかるべし。それ秘蔵の興廃は唯汝と我となり。汝、もし非法にして受け、 我もし非法にして伝えば、将来喪求法の人、何によってか求法の意を知ること得む。 非法の伝授せる、これを盗法と名づく。即ちこれ仏をあざむくなり。また秘蔵の奥旨は文の得ることを貴しとせず。 唯心を以て心に伝ふるに在り。文はこれ糟粕なり、文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を愛すれば粋実至実を失ふ。 真を棄てて偽を拾ふ、愚人の法なり。云々」とある。
これは、真言密教の教法は文字文献の上だけによっただけで理解できるものでなく、 実習し実践することで体得するものであるという意味である。 即ち、お大師さまは大宇宙の生命の根源である大日如来と一体になるため、日夜真言を唱え修法される傍ら、 自分の足で野山を歩き、村に病人を発見されれば薬草を探して煎じて与えられるなど、現世で実践、実習しておられる。 誠に、森師が言われた言葉そのままの実践行がお大師さまの考えそのものであることに気付いたのである。
そういわれてみれば、大学時代より「声明の達人」といわれた今は亡き、 中川善教先生に師事する好機に恵まれ、卒業後も先生が亡くなられるまでの間、 週に二回の割合で声明を習いに高野山まで通ったが、先生は
「理趣法でいいから、一日に一座は修法せんといけませんなあ」
とよく言われていたことを思い出した。
この度の震災により、被災地で繰り返されたボランティア活動…
自分たちの本来持っているやさしい気持ちを以って、即座に被災地に飛んできていただき 真心込めて奉仕いただいた人たちの心はお大師さまの精神そのものであり、 現世に生きるお大師さまの教えを実践された尊い人たちに他ならないと思う。
大震災当初は気持ちを落ち着けて考えることができなかったが、 一年近く経過した今、落ち着いて考えてみると、 普段からしつかりとした信念を持って生きることが一番重要なことだと考えるようになった。 自分の心のもち方、考え方一つで起こす行動が違ってくる。 この度の大震災に置き換えて考えてみても、誰が死んでいてもおかしくなかった状態で、 自分が生かされていたことに気付いたとき、適切な行動をとれるかとれないかは、そこにつながってくると思う。 こういった的確な行動を引き起こさせる冷静な精神を鍛錬する為に 、また人を思いやる心、愛する心を養うためにも毎日の修法が生かされてくるのではないだろうか。 森師の言葉をヒントに、大震災の中からお大師さまからのメッセージを学んだと思い、 逆にこの大震災をステップして強く生きていきたい。
『六甲山 鷲林寺』HPより
大震災から学ぶ入我我入感
ジョイセフの救援活動
彼はCMディレクター
作家 藤本義一氏にインタビュー
ジョイセフの救援活動
六大新報 平成八年三月五日号掲載
「ジョイセフにも寄っていこうか」
昨年暮れ、所用で全真言宗青年連盟理事長の森 英真師と上京した時の出来事である。 思いついたらすぐに行動に移す。森師のいつものパターンながら、いささか驚いた。
「ジョイセフって何ですか?」
聞いたことのあるような、ないような単語である。
「ジョイセフは、国連人口基金、国際家族計画連盟とも協力しながら、 アジア・アフリカ・中南米の開発途上国の人々の健康と幸せのために、 健康・環境衛生教育、母子保険、家族計画の国際協力を推進している法人で、 そこに僕の友人の尾崎美千生さんがいるんだよ。 又その人が素晴らしい人でね。藤原君に是非紹介したいと思ったんだ。」
非常に難しい内容で、私たち一般人にとっては聞き慣れない固有名詞が飛び交い、 又『国連』などという単語が入ってくると本質的にビビってしまい
「大変な所に行くんだな。尾崎さんて恐い人なのかな」
という不安と期待に胸を膨らませながらジョイセフのドアをノックした。
部屋の奥に通され尾崎さんを紹介していただく。思ったより優しそうな人で胸をなで下ろした。 尾崎さんは新聞社の政治部記者として活躍されてきた人で、そのころから、発展途上国の人口問題に深い関心を持ち、 この問題の推進に積極的に関わってこられた故福田赴夫元首相や現在ジョイセフ理事長の国井長次郎氏などと意気投合し、 新聞社を退いた後もボランティア活動にかかわってこられた人物であった。
話を伺っている中に、大変興味深いことがあった。 それは、ジョイセフでは現在使用済みプリペイトカードの収集を行っているということである。 収集したカードを専門の業者を通して内外、特にヨーロッパのマニアに販売して、 その益金の一部を事業資金に充てているということである。 販売可能なカードは、NTTのテレホンカード、JRのオレンジカードとイオカード、 日本道路公団のハイウェイカード、営団地下鉄のメトロカード、郵政省のふみカード、図書カード、 中央競馬会のオッズカード、公営のバスカード、及び各私鉄のプリペイトカードなどである。
この使用済みプリペイトカードによってできることは
1枚 駆虫薬3錠を購入し、寄生虫に感染した小学校の児童に飲ませ、虫下しを行う。又、衛生教育も学校児童に実施する。
4枚 生まれた赤ん坊のへその緒を清潔で安全に切るカミソリを買い、幼児死亡率を減らす。
5枚 婦人会の料理実習に使うカップ1ケを買う。
5枚 手を洗う衛生教育教材として石鹸1ケを買う。
6枚 婦人会が自主的に運営する保育園に子供ひとりを1ヶ月間預け、手作りのおやつや給食を配り、栄養失調や栄養不良を減らす。
9枚 婦人会の料理実習に使うスプーン1ケを買う。
11枚 保健婦や助産婦が母子保険や家族計画の巡回指導のため、町から村へ移動するバス片道代。
14枚 婦人会員の技術訓練として、毛糸編み針を買い、村人に買ってもらった製品の代金はまた活動資金として還元する。
16枚 トマトやキャベツの種1袋(25s)を買い、婦人会等の菜園活動の助けとする。
16枚 村のメンズクラブが廃品のドラム缶1ケを買い取り、ドラム缶の厚い鉄板を再利用して鍬や鋤などの農具を作る。
18枚 婦人会のメンバーに縫製を実習する時に使うテープメジャーを1ケ買う。
44枚 婦人会のメンバーに縫製を実習する時に使うハサミをひとつ買う。
90枚 雨が降っている時や、雨期にも野外で活動する助産婦や家族計画のフィールドワーカーが履く長靴を一足買う。
92枚 雨期に村々を巡回指導するフィールドワーカーが使う傘を買う。
146枚 大豆1袋(25s)を買い、農業を行い、村人のタンパク源とする。
214枚 種ジャガイモ1袋(25s)を買い、農業を行う。
220枚 トウモロコシの種1袋 ( 25s)を買い、収穫物は村人の主食とする。
4800枚 伝統的助産婦1名を3週間トレーニングし、無医村における安全な出産介助と産前産後の指導ができるようにする。
29000枚 収穫したトウモロコシの実を取るミリーングマシーン1台、あるいは稲の籾取り機1台を購入し、 村人の農作業を軽減する。これらをきっかけに婦人会等の地区組織と協力して農業協同組合を作る運動等を始めながら、村おこしを図る。
・・・ などである。
この資料を見て驚いてしまった。普段何も考えずに捨ててしまっていたテレホンカードなどで人の生命が救える。 何ともったいないことをしていたのだろうか。一人一人が気をつければ莫大な数のカードを収集することができる。 そして、大勢の困った人達を救うことができる。何と素晴らしいことなんだろう。 又、収集は決して難しいことではない。簡単なことではなかろうか。 例えば神社仏閣の事務所の前に専用の箱を設置して、参詣者にひとことお願いの張り紙をしておけばいい。 この資料を見て驚いてしまった。普段何も考えずに捨ててしまっていたテレホンカードなどで人の生命が救える。 何ともったいないことをしていたのだろうか。一人一人が気をつければ莫大な数のカードを収集することができる。 そして、大勢の困った人達を救うことができる。何と素晴らしいことなんだろう。 又、収集は決して難しいことではない。簡単なことではなかろうか。 例えば神社仏閣の事務所の前に専用の箱を設置して、参詣者にひとことお願いの張り紙をしておけばいい。
このような運動が全国的に、あらゆる機関で実施されるようになれば素晴らしいことである。 実は、我々の仲間ですでに取り組んでおられる会がある。善通寺派青年会の諸師である。 お大師さまの説かれる処の「済世利人」の精神で、できることからはじめていこうではないか。
『六甲山 鷲林寺』HPより
大震災から学ぶ入我我入感
ジョイセフの救援活動
彼はCMディレクター
作家 藤本義一氏にインタビュー
彼はCMディレクター
六大新報 平成八年五月二十五日号掲載
佐々木隆信(ささき りゅうしん)さんから突然ファックスが届いた。所用で大阪に行くから、その時会わないかという内容であった。
佐々木隆信といっても誰のことかわからないであろう。しかし、『ピップエレキバン』のCMといえば誰でも
「ああ、あのCMね」
と言われるだろう 女優の樹木希林と藤本株式会社の会長のシリーズで、 樹木希林の言葉にただ「ピップエレキバン」と答えるだけのおもしろいCMなどは記憶に新しい。 彼は有名なCMディレクターである。 この業界の四天王と呼ばれる人で、この人を怒らすとテレビに出演できなくなるといわれるほどの超大物な人物である。 このシリーズで「ピップエレキバン」は年商3億円が100億円になったという。
隆信さんと知り合ったのは、『大震災の中から芽生える』というタイトルの阪神淡路大震災の本を 出版したことがきっかけとなった。当初は本にしようというような下心は全くなかった。
六大新報社主筆の今井幹雄先生に
「地震当日からの日記がある」
と申し上げると
「自分の記録として、文章に残しておけばどうだね」
という言葉をいただいた。その言葉を皮切りに
「そうだ。文章に残しておこう」
と思い書き始めたのが始まりであった。
書き上がった原稿を、当時の全青連理事長の森 英真さんに見せると、眼を輝かせて
「これを本にしよう」
と言い出した。何を言っているのかわからなかった。
「僕の友人に素晴らしいスタッフがいるから頼んでみるよ」
全く未知の世界のことだし、半信半疑で全て任せることになった。
数日して森さんから連絡があった。出版社は平凡社ブッククラブに決まり、 本のタイトルを佐々木隆信さんがつけてくれることになったとのこと。これが隆信さんとの出会いであった。
森さんと一緒に上京した際に隆信さんと会うことができた。 森さんから隆信さんが書いた本を送ってもらい前もって読んでいたので、 どのような人物なのかはだいたい把握していたつもりであった。 しかし、いざ超大物の隆信さんに出会うとなればかなり緊張していた。 待ち合わせのスナックに行くと隆信さんはもはや来ていた。二人が入ってきたのに気付くと、 水割りの入ったグラスを傾けながら、やさしそうな笑顔を浮かべながら手を上げた。 長髪に大きな目、そしてトレードマークの口髭が印象的だった。
本来ならば、自己紹介から始まるのが常識である。
「始めまして。藤原栄善と申します」
そう挨拶をしようと思うやいなや、隆信さんから突拍子もない言葉を聞いた。
「先日、早朝に永平寺に行って来てね。もちろん撮影だよ。 アポイントメントなしで行ったら、門前払いをくらっちゃってね。まいったよ。 受付の坊さんに名刺を出して、撮影させてくれと頼んだら、何を撮影するのかと聞くから、 空気だと言ったのね。するとその坊さんが不思議そうな顔をするんで、 永平寺の紅葉についた朝露が、朝日のぬくもりで蒸発するシーンを撮りたいんだ。 だから今しかチャンスがないんだと懇願するとO.Kが出て撮影ができたんだ。 僕も一応名の通ったCMディレクターだから、一万円をポチ袋に入れて坊さんに差し出すと、 受け取れないと言うんだよ。何故だと聞くと、空気はタダだと返されちゃった。坊さんもなかなかユニークだね」
そんな話をした後
「はじめまして、佐々木隆信です」
と握手してきた。こんな自己紹介は始めてであった。 おそらく、ドアを開けて入ってきた私の顔を見て、かなり緊張していることに気付いたのであろう。 緊張を解きほぐすためにわざと興味を抱く話をされたのだろう。 お陰で緊張は解け、スムーズな話ができた。何と素晴らしいテクニックであろう。 しかもそれを自然体でこなす。ただ者ではないことを改めて肌で感じた。
又、今回の『大震災の中から芽生える』というタイトルであるが、 超一流の隆信さんにつけていただいたのだから、本来ならば相当額のギャラを支払わなくてはならない。 しかし、森さんと隆信さんの友情、そしてテーマが大震災であることなどから無料となった。 これも隆信さんのやさしさであろう。
何が行われるのかもわからないまま大阪の会場に出向いた。 会場は、おそらく私たちお坊さんとは結びつかない人達でいっぱいになっていた。 髪を伸ばした芸術家風の人、わざと破いたジーパンをはいている人、テレビ関係の人などなど。 そんな雰囲気の中にポツンと一人のお坊さんが立っている。 場違いの所にやってきてしまったという不安が一気に走った。
このまま黙って帰ろうか・・・そう思った時に
「藤原さん。よく来てくれたね」
という声が聞こえた。振り返ると、隆信さんが立っていた。
「こちらに来て。飲み物もあるから」
そう言って、会場の奥まで案内してくれた。
今回は隆信さんの友人であるプロデューサーの井上宏利さんの主催で『夢あばれ・キネライブ96』というテーマで開催された集いであった。
第一部を隆信さんが受け持った。
隆信さんは仕事の傍ら、古いフィルムを求めて全国を行脚されている。 田舎の小学校の倉庫に貴重なフィルムが残っていたり、藁葺きの古い家の蔵の中で貴重なフィルムを発見したりするらしい。 今回は、数百本の貴重なフィルムの中から、一本のフィルム缶から偶然見つけた昭和の記録映像を上映していただいた。 これは、昭和三十六年の撮影で、小学校の社会科の教材フィルムであった。『日本の子ども達』という題で、全国の子供の生活を撮している。
山形県の子ども達は、両親が林業を営んで忙しいので、子供だけで週の内五日間を分校で合宿して勉強をする。 土曜日の午後になると全員トロッコに乗り分校を出て二時間かけて家路につく。月曜日になると分校に戻ってくる。
大阪は商人の町で、夜が遅い両親は、子ども達が学校に出かける時間はまだ寝ている。 だから大阪の小学校は、朝も給食がある。大阪はビルが建ちかけていて、子ども達は運動不足になりがちだ。 だから狭い校庭を朝に全員で何周も何周も走る。
沖縄は日本だが、アメリカ軍の基地がありお金もアメリカのドルを使う。しかし、算数は日本円の勉強をする。
学校を卒業したお兄さん・お姉さんは、東京の上野駅に降り立ち、将来の希望を夢を抱き、 それぞれ一生懸命働いています。という内容のフィルムであった。昭和三十六年といえば物質がなく、 まだまだ貧しい生活をしていた日本である。しかし、フィルムの中に映し出されている子ども達の顔は生き生きしていた。 勉強、遊び、仕事、どれに対しても一生懸命である。フィルムに映し出されている同年代の女性が会場にいた。 見比べてみると、日本女性は確かに綺麗になった。スタイルも良くなったし、顔も美しい。 しかし、フィルムの中の女性の方が輝いて見えたのは私だけであっただろうか。
隆信さんは、一本の古いフィルムを全国あらゆる所で上映しながら、忘れかけている「日本人のこころ」を訴えているような気がした。
第二部は豊田勇造というミュージシャンのライブであった。 この人は永年タイ国で活動し、最近日本に帰ってきた人であった。ギターを片手に歌を歌う。 テレビでしか見たことのない生の演奏は迫力があった。 その中で、数年前問題になったタイ米をテーマにした歌があった。 日本が米不足になった時にタイ国から輸入されたタイ米が、臭いまずいと言われながら、 捨てられてしまった事件はまだ記憶に新しい。タイ米の気持になっての歌であった。
「わざわざ遠い日本までやって来て、捨てられるくらいなら、お腹をすかしているタイのあの子ども達に食べられたい・・・」
隆信さんのフィルムを見て、豊田さんの歌を聞いて、この人達がやっている活動は、 スタイルこそ違うが本当はお坊さんがしなければならないこと、お坊さんの本来の姿ではなかろうかと思った。 恥ずかしい気持にさえなった。そう隆信さんに話しをすると、ただニコニコ笑っているだけだった。 隆信さんの眼がかえって恐かった。
十二月のことを「師走」という。 「師」とはお坊さんのことを指すそうで、暮れになると普段は寺で読経したり掃除をしたりするお坊さんも正月の用意で走り回る。 だから「師走」というらしい。しかし、最近の都会のお坊さんは、年中スクーターに乗って走り回っている。 年中「師走」の状態である。忙しくなったことで余裕がなくなり、本来の自分を忘れてしまいがちな昨今であるが、 心だけには余裕を失ってはならいと思う。色々なことを考えさせられた集いであった。 このような貴重な時間を与えてくれた隆信さんに感謝申し上げる。
『六甲山 鷲林寺』HPより
大震災から学ぶ入我我入感
ジョイセフの救援活動
彼はCMディレクター
作家 藤本義一氏にインタビュー
作家 藤本義一氏にインタビュー
特集 「希望の家」の根底にある精神とは?
作家 藤本義一氏にインタビュー
聞き手
全真言宗青年連盟前理事長 森 英真
全真言宗青年連盟前常任理事 藤原 栄善
左より藤原、藤本義一氏、森
平成8年4月10日
機関紙 全青連13号 平成8年6月1日号掲載
●
援助の受けての立場を考える
森
今回、藤本先生が震災遺児、孤児のために、「希望の家」を建設されるということを聞きました。 今日は全青連の災害事務局として、救援のあり方を会員の皆様にご紹介するために、 藤本先生の「希望の家」について少しお話を承りたいと思います。
藤本
「希望の家」というのは、まだ仮称なんだけど、震災遺児、孤児たちのための心のケアとして、 相談所、集会所、宿泊所を兼ねた憩いの場所を提供しようというものなんだ。
藤原
去る四月六日に西宮市仏教会主催で、「復興支援花祭り」が開催され、私たちはぬいぐるみを登場させました。 今回は特に子供の心のケアを中心にした活動だったんですが、もぬいぐるみを必要以上に殴ったり、 蹴ったりする子供がおりました。ストレスがあるんでしょうね。
森
震災で親を亡くした子供たちは641人、その中で両親を一度に亡くした子供たちは 113人もいるという事実には胸が痛みます。このように親を失った子供の心を癒すための施設ということで 「希望の家」の構想が始まったわけですね。私たち一人一人の義捐金が「希望の家」を創る資金になるのなら、 援助する方も、また援助を受ける方にも、スムーズな関係で行うことができますね。
●
リフレイミングの入り口
森
藤本先生からいただいた趣意書にある 「リフレイミングの入り口」 という言葉について説明していただけないでしょうか。
藤本
リフレイミングというのは、自己評価という意味です。 肉親を失って子供たちが背負った深い苦悩は決して、外から人為的に取り除けるものではないし、推し測れるものでもない。 子供たちの心理状態を回復させるには、子供たち自身が自分の心を見つめなおし、心を開くしかない。 それが自己の再構築 (reframe) という過程で、その作業に手を貸すのが私たちの仕事と考えているんだ。
航機墜落事故で奇跡の生還をした川上慶子さんに専門医に接してもらい、 川上さん自身の口から、きょうまでの心の軌跡を語ってもらい、その録音テープを子供たちに聴かせてみようと思っている。 音声による方法が最も子供の心に近づきやすく、リフレイミングの入り口が見えてきやすい。
森
趣意書の中で、「希望の家」は「子供たち同士が話し合える自己確立の場」を提供するとありますが、 この自己確立こそが子供たちが社会人に成長していくためにも最も必要ということですね。
また、先生は、横につながる社会を形成することが被災した人々をあらゆるレベルで救援することになると 考えておられると思いました。「希望の家」の完成予定は平成10年1月17日ということですが、現在どこまで進んでいるのですか。
藤本
今、「希望の家」の建設用地を捜しているんだ。これには、神戸市内の土地を氏に提供してもらうことを考えている。 建設資金は一億円で、材木については奈良県十津川村に無償提供してもらう方向で交渉を進めている。 施設は完成した時点で、神戸市に寄贈し、運営は「希望の家」運営委員会に引き継ぐことにしているんだ。 また、南こうせつ、さだまさし等がコンサートを開いてくれている。これらには感謝している。 というのも、我々がしようとしていることを全部すれば、二十億円程度要るからね。
森
震災遺児、孤児に対する具体的な救援方法をどのように考えておられますか。
藤本
親を失った子供が対象なんだが、彼らが社会人になるまで面倒を見なければならない。 震災で大きなショックを受けた子供が回復するまでに10年間は必要なんだ。 一昨年のことだが、百円塾というものを作ったんだね。4才から小学校4年生対象に、 子供たちが百円玉を握っていくと、ボランティアの先生が竹トンボや牛乳パックを使った遊技道具の作り方を 指導してくれるんだが、これが全国に広まっているんだ。
震災が起こって、子ども達が集まっている場所が民営の避難所の第一号になったんだね。 そういった地域的な場所を作っておかないと災害になったときに大混乱になるね。 お寺なんかはまさにそういう場所なんだがな・・・。
藤原
先生が震災遺児に対して「希望の家」を創り、震災で心のダメージを受けた子供たちの 一日も早い回復に手を差し伸べられている姿勢には、本当に感動を覚えました。 < 心 > を取り扱う私たち宗教者は、特に今回の震災で考えさせられることが多くありました。 先生から、私たちに何かアドバイスがありましたら・・・。
●
寺院を人の集まる場所に
藤本
うん、そうだね。今は、お寺に自由に出入りできなくなったイメージがあるね。 僕の友人に禅宗の寺の住職が二人いますが、企業に解放していますな。禅とかを通して。難しい世の中になってきましたな。
コンピューターが普及しているけど、コンピューターが入り込めない所がお寺だと思うね。 例えば「親切」という単語があるが、親を切って何故「親切」と言うのか・・・ こういうことを仏教を通して説いていくとか、そういうものをこまめにやっていけば、人が集まって来るんじゃないかな。
仏教の経典を見ていますと、呉音がほとんどですな。漢音で全部やっているのはないね。 例えば、南無阿弥陀仏というのも全部呉音ですもんね。呉音で書いて漢音で解釈してしまうからややこしくなってくるんですな。
藤原
最近の人達、特に若い人にお寺とは何?と質問すると90パーセント以上の人が、 お寺とは葬式、法事をする場所。坊さんは人が亡くなったときに呼ぶ人と答えるでしょう。 昔、寺子屋は役場の代わりをして、学校の代わり、集会所の代わりをしてきた。 しかし、いつの時代にか方向が変わってしまってそういった誤った認識が人々の意識に根付いてしまったような気がします。 これは、私たち宗教家にも大きな責任があると思います。こういう意識改革が今後は必要だと思います。 そういう意味で、今回の大震災で芽生えた他人に対する思いやりの心を大切に育んでいかないと、 亡くなった6300余人の人々に申し訳ないと思います。
藤本
そうだね。青年僧の皆さんもこの度の貴重な体験を通して、討論を重ねて頑張ってくださるよう期待しますよ。 これから先、何が起こるかわからない。そんなときに皆さんが力を合わせて何ができるのか、 それはこれからの皆さんの考え方ひとつでどんなふうにも変化していくと思いますね。
森
きょう、先生とお話をして感じたことは、震災による復興とは現状に戻すということではなく、 マイナスをプラスへ転化していくことだと思いました。全青連もこの震災を契機に、 社会とのつながりをしっかりと持つことが大切だということですね。
( 全青連は、震災遺児、孤児のための「希望の家」に寄付させていただきました )
※現在 「希望の家」 は名称を 「浜風の家」 と変え、芦屋市浜風町に完成し活動されています。
『六甲山 鷲林寺』HPより
大震災から学ぶ入我我入感
ジョイセフの救援活動
彼はCMディレクター
作家 藤本義一氏にインタビュー